他に好きなものがあることは悪ですか

 

『推し、燃ゆ』を読んだ。

 

 

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。そんな書き出しで始まる小説だ。芥川賞にノミネートされたことでこの作品を知った私は、タイトルを知ってまず初めに、読まなきゃなぁと思った。読みたい、よりも先に読まなきゃ、という感情が浮かんだのは、私が拗らせたオタクの文章を読むのが好きだからで、そして同時に〝そこ〟までは至れない自分を知っているからだ。不健全な憧れを抱いていると思う。

 

私には自担・推しと呼べる存在が複数人いる。そして私は、主人公のあかりと同じく、彼らを〝解釈〟することをオタクとしてのスタンスとしていた。

本当は、生身の人間を解釈したところで、その人の本質を知ることなんてできないと知っている。わかっていながら、提示されたものを咀嚼して考えを巡らすことが私にとって何よりも幸福な時間で、ずっとそうして生きてきた。

あかりは、推しである上野真幸のあらゆる発言を書き止め、ファイルに分けて整理し、彼の思考を読み解く。あかりは、膨大なデータを根拠として、彼なら今からこう言うだろうなと予測し、実際にその通りになる。私もイベントの質疑応答コーナーで推しの答えを頭の中で予想し、その理由まで含めて当てみせたことが何度かある。そういう時は決まって心の中でガッツポーズをする。あかりにとってはもはや当然のことが、私にとっては喜びだった。

 

 

私は、いくつかの軸に支えられる生活を、もう何年も続けている。

自担が出演した映画やドラマ、バラエティ、そしてコンサートの映像を何度も観て、雑誌のインタビューを読み込んで、ラジオを聴いた。正しくあることを望む私はたった一つのファンクラブ名義を握りしめて、年に一度のコンサートを思い切り楽しんだ。

提示されたものから解釈を重ねることを絶対とする私は、週刊誌の記事だとか、噂話だとか、そういうものが嫌いだった。彼らが見せようと思って見せてくれるものだけを受け取りたくて、周囲に不穏な話が流れ始めると私は決まって別のひとのことを考えて、ほとぼりが冷めるのを待つ。そうやって上手い具合に、楽しく生きてきた。

私は依存対象を分散させることでバランスを保つタイプで、自分が〝そう〟であることをどこかで誇っていたように思う。情報の取捨選択ができること、精神的に健やかな状態を自らの意思で保てること。それが賢いオタクだと思っていたし、実際、今もそう信じている。けれど同時に、たった一人を絶対的な存在として崇めて、のめり込む人のことを、私は確かに羨んでいた。生活の一切を彼に捧げて、彼のことだけを考えている人が綴る文章の、痛いくらいの眩しさと切実さに憧れた。私は、どれだけかかっても彼女たちが見ている景色を知ることはできない。

きっと、自担も推しも、そんなことは望んでいないだろう。彼らは、応援する人の活力となることを望み、それ以上の重みを預けられることを良しとしない。正しくて、健全で、綺麗な在り方だと思う。そして、それだから彼らのことが好きだ(もっとも、これも提示されたものを拾い上げて解釈した結果の、私の予測に過ぎないのだけれど)。

 

 

 

ここ一年でよく「一途じゃない人は他に逃げ場がある」「他で満たされるだろう」「掛け持ちしている人には気持ちがわからない」という言葉を目にするようになった。「グループ内掛け持ちの方は苦手意識があるのでUターンお願いします」と書いてあるツイプロもいくつか見た。その度に、違うところに好きなものがあるということは、その対象ひとつを真っ直ぐにみている人からすると悪なのだと思うようになった。そして、わたしの中にある“好き”の気持ちは、所詮SNSを通してでしか測られていないのだと思い知らされた。SNSを介してでしか繋がっていない人のことを知るためのツールなんてSNSでしか無いのは百も承知なので、そんなことは必然なのかもしれないが、自分の中だけに大切にしまい込んだ、言葉にしなかった心の奥底にある好きの気持ちは想像されないのだろうと思った。そのことを痛感してどこか怖くなった。私がただただ私の好きの証明のように呟いた言葉が誰かの目に止まり、それが熱量の判断材料になるのかもしれない。そして、新たな好きを露呈したら、それが逃げだと思われるのかもしれない。そんな考えを持ちながら、この一年はなんとも言えない気持ちを巡らせていた。

 

 

いつだったかな、掛け持ち先の垢で、なんとなく気になるアイドルができたと呟いたら、切り替え早くて良いですね、羨ましいです、というマシュマロをもらった。文字通り、めちゃくちゃに、煽られている。一瞬どきりとして、そうだよなぁと思いつつ、単に好きの対象を移行させたわけではないんだけどな、と返そうとしたけれど、マシュマロの返信に許されたたったの100字では恐らく何も伝えられないし、そのためにツイートを連投してタイムラインを埋めるのも忍びなくて、やめた。

実際、そう捉えられてもおかしくないのだろうと思う。私が何を考えて何を追い求めているかなんて、見せなければ誰も知らない。わかってもらえないことを嘆いたところで仕方のない話だった。だけど一つだけ言いたいのは、その“好き”は、決してなにかの代わりでは無い。全て自分を作り上げている大切なピースの1つだ。代わりになることは絶対にない。逃げ道ではない。どっちの方が大事とか、この人の方が好きとか、そういうんじゃないんだよ。大切なものが、守りたいものが、心の中の別の引き出しに1つ多いだけなのだから。

 

どんなことを思い、どんなことを感じ、どんなところが好きか。それを言葉にして並べていても、それがその人の全てではないというところまで想像力を持たなければならない。「好き」はもっともっと深く、言葉にできないところにあって正解なのだから。

 

ここまで書いていて勘違いされたくは無いので綴っておくと、一途に思っている人が、違うところに好きがある人のことを遠ざけることは何にも悪く無い。全て感じたことは正解だと思う。複雑な感情が生まれることは当たり前で、それは全部その人の中にある正しさだから。自分を守る行為だから。でも、いやだからこそ。同じように。どうか、どうか、自分の好きは自分で守り続けよう。君の好きは君を強くする大切なものだ。誰かから刃を向けられることがあろうとも、自分の好きは自分が大事にしているのだと堂々とした顔で立とう。好きなものがあるということは素晴らしいことだと唱えよう。何かに一筋である人。真っ直ぐに好きでいられることは凄く凄く素敵だ。あなたの持つ愛を全て注げる場所があるということは素晴らしいことだと思う。沢山好きなものがある人。自分の好きに素直でいられるその感性は尊くて素敵なものだ。好きの範囲を決めずに、どんどんと宝箱を増やしていこう。

 

正解なんてきっとないから。ひとつでも多く、彼らの言葉を真正面から受け止めて、感じた心の輝きを言葉にして、このネットの海の中にある特別な名前がついた、“私だけの”宝箱に入れよう。見返しては、「私の好きはちゃんとここにある」と思うために。好きは決して悪にはならないから。そして一ヶ月後、一年後、今日この瞬間にここにいてくれる私の“好き”を、自分自身の手で肯定できるように。この先も望むのは、大切な人がただただ生き続けてくれることと、それを見て「この世界は最高だなあ」と笑うことだから。ただそれだけだから。

 

 

 

相変わらず私の日常には好きの対象が数多ある。たった一人の誰かを背骨にして生きていく、そのことが私にはどうにも難しい。〝彼〟がくれるものだけを拠り所にはできなくて、〝彼ら〟がそれぞれにくれるものを欲張りに食べていたいと思ってしまう。それが私にとっての満ち足りた栄養で、幸福だった。

 


あかりが綴った感覚と同質のものを、私は異なる濃度で知っている。〝そこ〟には至れない。至れない自分を、そっと、確かに、肯定していたい。